孤狼の心臓

 過去が全身を貫いて、私の背中へと走っていく。振り返る。雨が降りしきる紫陽花の庭で、雨具も何も持たずにお嬢様と追いかけっこをした私がいる。

 もしかしたら居たのかもしれない。

 

 その日々をずっと続けて大人になった私が。

 あるいはそう生きずとも別の形で幸せになっていた私が。

 

 命からがら逃げた先でひっそりとそれでも楽しく暮らす私が。

 その手を汚さないと決めた私が。

 居たのかもしれない。

 そうであればもしかしたら、此処での出会いもまた、違った意味になったのだろうか。

 友になれた人が居たのだろうか。

 友になれなかった人が居たのだろうか。

 愛した人が居たのだろうか。

 愛していない人が、居たのだろうか。

 そもそも、此処で出会わなかったら。

 もしもっと、別の形で出会えていたら。

 

 私は。

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「ルディナ、良いですね。決して、お嬢様に恥ずかしい態度を取らないように。お前は私の娘だけれど、この家の侍従でもあります。奔放なのは知っておりますが、くれぐれもそれは控えるように」

「はい、お母様」

 

 って返事したけど、するわけ無いじゃん!なんで私が我慢しなきゃならないのかわかんない!お嬢様っていうのもよく知らないし、色々教えて貰って、覚えたりもしたけれど、別にやる必要ってないねぇ。心で悪態をつく。お母さんもそれ以外の人も、皆私にそればっかり言う。だから、私はそのお嬢様もいっぱい困らせてやるつもりだ。

 こんこんこんとドアを叩く。

「いいよ。入ってきて」

 声が聞こえる。かわいい声だ。どんな人なんだろう。泣き虫だったら面白いなぁ。いっぱい振り回して、困らせてやろう。返事もしないでドアを開けた。

 開けて、驚いた。部屋は色々なものがあった。本棚はぎっしりで、重い画集も詰まっている。草花の香がする。不思議な匂いだ。窓辺には色々な植物が棚や床の瓶の中で活けられている。青いベルベットのカーテンには摘んできたのであろう花の黄色い花粉がついていた。特段ルビーみたいな赤い薔薇と、真珠みたいな白い百合、大量の榛とトネリコの枝は目立っていた。お嬢様という言葉の輪郭が崩れる。イメージが崩れる。なんだかちいさな魔女の部屋みたいな感じ。お嬢様は植物を眺めていたらしかったけど、こっちをみて近づく。部屋から差し込む、明るく優しい、穏やかな太陽の光を受けて。

「ふふ。いらっしゃい。君が、私のお付きの侍従になる子かな」

 かわいい声だけど、はっきりとした声だった。まっすぐな、声。瞳も真っ直ぐだ。自然と目が行く。肌は白くて指先は丸く、髪は艷やかな亜麻色で、蒼い瞳がこっちを見ている。

「はじめまして。私はレジアール・シアクロル。噂は聞いているよ。自由奔放なんでしょ、君。私だけの前では許してあげるから、他の人が居るときは気をつけて。それで十分だから」

 変な気持ちになって首を傾げる。塗り替わる。何かが。私の心は、磁石に吸われる石ころみたいに、そのお嬢様に引き寄せられていた。どうしてかわからなくって不思議だった。

 その部屋は庭に面している。身体が弱くても、外の新鮮な空気に触れられるようにしているみたいな話があったのを思い出す。大きな窓からは、紫陽花の花が咲いているのが見えた。お嬢様の眼に、似合っていると思った。

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「君はよく私のことを支えてくれるね、いつもありがとう」

「水たまりで傘差させながらご講釈垂れるのは良いのでもっと労ってくれません?ルジィナちゃ〜ん、いつも寂しくさせちゃってごめんね〜、大好きだよ〜。とか」

「君、大体寂しそうな顔してるもんね。そういうのよくないよ。いつも涼やかな顔しないと」

「え〜。まあでも私はお嬢様が気づいてくれるので十分ですかね」

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「お嬢様やめましょうよ!シダまみれですよここ!こんな苦行しなくたって!薔薇とか百合って見つかりますから!花屋に売らせましょ!」

「この先の廃教会の庭が綺麗だって聞いているから」

「ね〜えぇ!でもお嬢様最近も風邪引いたばっかりでしょう?!病弱にはつきものの休息をなんでお求めになんないんですかねぇ!」

「いつもありがとうねルジィナ。愛情を以て使えてくれてさ。でも曲げられないんだ。なんでかわかる?」

「知りません!でも仕事だから付き合ってます!帰りませんか?!」

「君、恐れてる?」

「ええ勿論!」

「ごめんて。じゃあ着いたら花束作ろう?ああ、冠も良いね。榛のお土産も持っていこうか」

「話聞けよ〜!」

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 あのしとしと雨降りの美しい静かなホテルは、すっかり地獄だった。私とかのせいで。けれども、私達は幸福しあわせだった。きっとこの中で、一番の。冷たい空気とぬるい水と限られた食料と降り続ける雨が牙を向いているこの場所で。

 私は、私を知らない。きっと他の人もそう。あの人達は、私を知らないだろう。

 そしてそれは、私もそう。私はあの人達を知らない。君達を知らない。

 けれど、目の前に相対する君たちだけは忘れない。忘れない。その腹を深く掻き切っても、首を鋭く切られても。忘れない。その声、その息、その姿を。ああでも、

 少しだけ手が震えて慄いちゃうなぁ、なんて。