鉤家一家心中があったのは、藍が10歳の頃でした。
その日も雨でした。
その日、藍は授業が終わると保健室に行きました。
毎日行きなさいと母親にきつく言われていたからです。
保健室でする事と言えば、学校内で一日怪我をしなかったかとかの検査で。
ほんの30分くらいの出来事だったと思います。
そこから歩いてバスに乗り、バスを降りてまた少し歩きました。
藍の家は小高い丘の住宅街にあって、ちょっとだけ時間がかかります。
藍は転んだりぶつけたりしないように気をつけながら、でも時々無意識に足を動かしてしまって。
その度に首を振りながら帰りました。
家に帰ってチャイムを押すと、普段は早く帰ってる誰かが出るのですが誰も出ません。
藍が1番早く帰るのはとても珍しいので、藍は家の鍵を持っていませんでした。
でも大丈夫です。玄関横の植木鉢の下に鍵がある事を、藍は覚えていますから。
なのでそこから鍵を取り出して差し込み、藍は帰宅する事が出来ました。
ちゃんと鍵は戻します。外からバレないように。
リビングからテレビの音がします。
玄関に両親と姉の靴がありました。
父親の革靴、母親がいつも履いてる白い靴。
それからこの前買ってもらったばっかりのピカピカの姉の靴。
全部揃っているのに誰も気づかなかったのかと思いましたが、もしかしたらみんなテレビに夢中なのかもなとすぐ気づきました。
藍は静かに歩いていきます。
肉じゃがの良い匂いがしてきて、炊飯器がピーと鳴りました。
今日のお夕飯はアレみたいです。
テレビを見るとどうやらニュースが流れていて、確かに家族の息遣いを感じました。
ご飯の机に今日のプリントとかを置く時に、ボウルに腕が少しぶつかりました。
けれどこれじゃ怪我しませんし、ボウルはひっくり返らなかったので良かったです。
ソファにランドセルを下ろして、とりあえず手を洗いに洗面所へ向かいます。
父親の髭剃りが充電中でした。
その点滅するランプを眺めながらうがいまでを済ませると、洗濯機が目に入ります。
普段こんな時間に洗濯はしないのですが、今日はいっぱいに洗濯物が入っていて。
ひとつ手に取るとまだ湿っていました。
きっとこれから干すんだと思います。
藍は洗濯物は干せませんからそのままにして、また歩き出しました。
あんまりにも誰もいなかったので、藍はこっそり両親の寝室を覗きに行く事にしました。
姉と藍の部屋は2階にあり、両親の寝室は1階にあって近いからです。
普段は入っちゃいけないけれど、覗くだけなら大丈夫の筈です。
父か母かを呼びながら扉を開けた気がします。
けれど誰も答えませんでした。
だって、
みんなダブルベッドに並んで死んでたからです。
死んでると分かったのは、何だか赤く見えたからです。
推理ものの漫画で見た死体って言葉がピッタリでした。
それが“心中”だと知るのは、もう少し先でしたが。
藍には何がどうなってそうなってるかは分かりませんでしたが、とにかく近くで見てみようと思いました。
だって怒るひとはもういないんです。
枕元まで行くと、首や胸に血がついているのが見えました。
父親の目元にそうっと手を伸ばしても、怒られませんでした。
その時何を思っていたのか、したのか。
藍にはあまり思い出せませんが。
警察が来た時には藍は彼等の中で寝てたそうです。
なので最初、警察は藍も死んでると思ったみたいです。
警察は強盗なんかを疑ったようですが、家はちっとも荒れていなかったので、それは心中って形になったみたいです。
後に父親の借金苦という事になったそうです。
無理、がつくのか。藍には分からなかったけれど。
多分どっちかです。どっちも同じです。
警察の人から色々聞かれたけれど、藍は特に何も答えられなかったと思います。
けれど10歳の子供なら、それも当然だと思います。
そうでなくても藍には何も分からなかったと思います。
それから藍は母方の祖母に預けられて育ちました。
祖母はひとりで藍を育てて、学校に通わせてくれました。
祖母の家が古くなるとアパートに引っ越して、藍が18になる頃に彼女は亡くなりました。
藍は非常に聞き分けの良い孫をしていたと思います。
祖母はひとりで大変だから男手があって良かったと思いますから。
子供はひとりで生きていけないので、祖母がいて良かったと祖母に言いました。
けれど祖母は藍の事が好きじゃなかったと思います。
父親の借金は祖母から騙して奪ったものだったからです。
実際祖母は時折藍を冷たい目で見つめていました。
病院に通うのを渋られました。
別にそれで良かったです。
祖母とはそういう契約関係ですから。
藍はそんな風に生きてきて、ここに連れて来られました。
何か違う事を少し期待して、それは意味が無くなりました。
けど、藍ってそんなものなのだと思います。
藍って多分、そういう風に生きる事が決まっていたんです。
少し遅くなっただけ。
もっと早くに死んでおけば良かっただけで。
雨が降っています。
雨がずっと降っています。
藍が死ぬその日も、雨でした。